(82年菊花賞)
11月に菊花賞が行われた頃は、ステイヤータイプの馬が一気に秋に完成してくるために、菊花賞で勢力図があっけなく変わってしまうことが良くあり、それがとても面白く、菊花賞を他のレースとは違うものにしていました。
パッシングサイアーは、夏前に賞金的に権利はとって10月京都大賞典にでてきます。同じ3才で牝馬のメジロカーラに敗れて5着となりますが、開幕週で当時としては早いタイムの決着であり、長距離タイプにはどう考えても不向きなレースであることが分かり、それでも結果的に差がなかったので、叩かれたことでどう考えても向いている菊花賞で期待がもてると思いました。
(菊花賞)
父ゲイサンは、凱旋門賞馬のファイントップ系であり、母父は、当時最高の血統とされた凱旋門賞馬ヴェイグリーノーブル(ハイペリオン系)でしたから、秋に強くて当たり前、距離が伸びて強くなって当たり前の血統で、思いこまなくても何かを感じさせる血統でした。
(82年京都大賞典)
菊花賞のパドックでの眩いばかりの馬体には感動しました。
結構パッドックは時間が長くて、どんな時でも飽き飽きする感じが少しは生まれますが、このときは何度でも完璧で芸術品のような馬体を鑑賞したい欲望が尽きませんでした。
結果は、ホリスキーのレコード勝ちの中を追いつめたけれどの2着。。結果的にこの菊花賞が最後のレースとなってしまいました。
いまでも彼が最高のステイヤーの一頭と信じています。
92年春、ヒシマサル、ファンタジースズカの快進撃は、驚きでした。ヒシマサルはセクレタリアート、ファンタジースズカはサドラーズウエルズと名馬、名種牡馬を父に持つ字面をそのままの強さを見せてくれました。
外国産馬が規制されている当時でしたから出られるレースは裏街道的なレースばかりでしたが、極端に荒れた京都4才特別を大外一気でヒシマサルが差しきりました。ヒシマサルは、秋もJCまでは善戦を続けましたが後はさほどでもありませんでした。
ファンタジースズカは首が高い走法でした。薄い馬でどうして豪快な勝ち方が出来るのか疑問に思いましたが春以降はさほどでない成績になりました。
(↑92年京都4才特別、5月施行)
(95年オパールS)
エイシンワシントンは、とても速い馬だった印象があります。
有名なのは96年のスプリンターズSでの数㎝のハナ差負けでしょうが、この馬が出てくると必ず高速決着になる印象がありました。
(95年スワンS)
94年スワンSでは先行してサクラバクシンオーの日本で初めての1400での1分20秒切りにつきあっていたりします。
強いという印象とは逆に重賞は2勝とは意外な結果に調べてみて今更びっくりです。
(96年陽春S)
彼によりオジジアン産駒は短距離スピード系であるとの認識になっていまいました。
(95年スワンS)
ヒシアケボノは、95年スワンSに勝ち暮れのG1スプリンターズSに勝ちました。とても大きな馬でした。スワンSなどで見せた直線で一気に引き離す迫力は凄いものがありましたがなぜか古馬になってから振るいませんでした。
90年代は最初はバブル、それ以後は超円高と高い馬を導入しやすい時代でしたので、究極は90年後半のマルガイ名馬群でしょうが、90年代は素晴らしい馬が日本に入ってきてレースをしました。いろんなタイプの馬たちが実際に走ったことは、現在の競馬のレベルの向上に少なからず役立っていると思います。
(89年天皇賞春)
ランニングフリー、88年の天皇賞2着など、堅実に走り続けました。弥生賞などを勝ったランニングゲイルの父となります。
(90年阪神3才S、91年京都新聞杯)
イブキマイカグラ、京都で施行された阪神3才Sを勝ち、弥生賞では朝日杯勝ちのリンドシェーバーを押さえて勝ち、クラシックの主役に躍り出たのですが、トウカイテイオーに及ばず脇役的な役割になってしまいました。
(91年京都新聞杯、94年天皇賞春、94年JC)
ナイスネイチャ、彼も91年クラシック組でした。京都新聞杯を勝って菊花賞の主役になりますが、勝ちきれないのが始まりでずっと善戦続きの競争生活になりました。人気もあり、差す時の勢いも素晴らしいものがあったのですが勝てませんでした。
(92年菊花賞、93年高松宮杯、94年JC)
マチカネタンホイザ、92年菊花賞では、ライスシャワー等を差しきるところまでいきましたが勝ち切れませんでした。
その後も大レースでは、素晴らしい馬体と出来を披露してひょっとしてと思わせるのですが善戦のみに終わりました。
見ていてうっとりするほどの馬体が印象的でした。
(94年天皇賞春)
ステージチャンプ、93年菊花賞2着、95年天皇賞春をハナ差2着と長距離馬のジリ脚タイプの馬でした。そのため勝ちきれず脇役の立場になってしまいました。
名馬ダイナアクトレスの産駒です。
大きくて、バランスの良い馬体は、サラブレッドの美しさの一つだと思います。モンスニーも大きい馬でした。バランスの素晴らしい馬体で、綺麗な毛色をしていましたから、何かをこちらが勝手に感じてしまう馬でした。
83年皐月賞、ダービーで、シービーにもう少しのところで惜敗し、逆に菊花賞では絶対であろうと思いましたが、故障してその秋を棒に振っています。
復帰してからは少し輝きが鈍りました。それでも高松宮杯に勝っています。
リマンドが種牡馬として好調の時の産駒でした。惜敗つづき、故障と暗いイメージで見てしまいがちですが、馬はノホホンとして活気があり、常に陽性でありつづけましたので彼について暗いイメージを持ったことはありませんでした。
13番86春天皇賞、4番82阪神3才S
90年ジャパンカップの公開調教には、当時3才のホワイトストーンも参加していました。菊花賞で2着となったあと、美浦を経由したかどうかはわかりませんが、関東馬でありながら公開調教から東京滞在し、レースに臨んで、強力なメンバーの中で4着となっており、相当の実力があることを示しています。
次の年からは関西、関東両方とも東京に滞在しての調教はなくなり、直前入厩になりました。
もしJCを彼が取りやめて、有馬記念1本に目標を絞っていたら、オグリの奇跡の復活劇でない有馬になっていたのかもしれません。
とにかく気合い乗りの良い馬で、3才まではそれが良い方向に向いていましたが力がつきすぎた4才からは、仕上がりきるとカリカリして精神面でレースに影響し、脇役クラスの成績になってしまったのがとても残念な馬でした。シービークロスの産駒です。ダービーでも3着になっています。
90年菊花賞↑
91年宝塚記念(京都開催)
こうやって列べてみて気づいたのは、どちらかといえば、2400㍍以上で強い血統が多いことです。
メジロファントム(的場騎手)は天皇賞秋、有馬記念をハナ差で敗れていますので相当強かったのですがそれが絶好長期であり、少し足りなくなった他の時期では次々と名馬クラスが現れて、上回られてしまい勝てませんでした。とても格好いい馬でした。
スダホークは85年ダービー、菊花賞と2着で、シーホークの産駒であり、中長距離を得意としました。冬の時期に関西へ遠征してきて田原騎手とのコンビで京都の重賞を連覇したりしました。なんだか悲壮感がない分強いって感じがしない馬でした。
ニシノライデンはダイコーターの産駒で、84年秋に京都新聞杯を勝って、ルドルフの対抗として見なされてからクセ馬人生が始まりました。
シービーには1度先着、ミホシンザンにも僅差まで迫っており強かったのです。2度も斜行で斜行で失格になっています。
オーバーレインボー(田島騎手)は、重賞の常連で「まだ走ってるか」と感心したくなるくらい走りました。あれだけ負けると強いって印象が無いんですけれど、日経新春杯に勝利しています。
調べれば年代はハッキリしますが80年代前半です。
しかし、クセ馬に田原騎手。。。。似合ってますね。
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