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81年の2才路線は、サルノキングがいて圧倒的だったのですが、阪神3才Sは、大本命でありながら取り消して、逃げ切りばかりで勝ち続けてきたリードエーティがここも押し切って勝ってしまいました。
父はトライバルチーフ、テスコボーイの大成功でその父のプリンスリーギフトの産駒がどっと種牡馬として輸入された内、鳴り物入りの種牡馬が数頭、例えばファバージ、ゲイルーザック、サンプリンスなどいたのですが、そういう部類の一頭としてトライバルチーフも日本にやってきて、たしかその初年度産駒だったと思います。いわば幸先よいスタートをきれたのですが長くは続きませんでした。
リードエーティ自体もこのあと故障でパッとしなかったと憶えているというか、サルノキング騒動からはじまる未曾有の群雄割拠のクラシック戦線に存在自体が飲み込まれて忘れ去られてしまった感じです。写真は81年阪神3才S、このころは数え年なので2才が3才になり、暮れの3才Sは、西東別々に同じマイルでおこなっていました。
セレクトセールやサラブレッドクラブの募集があるとどうしても彼女が母系にいる馬達に惹かれてしまう時があります。「ダイナカール=走る馬」的な条件反射がもうすでに出来上がっているのです。
彼女自身は小さな馬で、毛色ももう一つで、派手な馬が多かったノーザンテーストの産駒の中では、目立たない存在ではありました。
ノーザンテーストのハイペリオンの影響による成長力と母父ガーサントの伝わる激しい気性が、彼女の個性であり、走る原動力でもありました。
その個性が子供達に伝わって、様々な化学変化を毎年のようにおこし続けているのは、競馬場で彼女を見た人間としてはとても面白いことです。
(写真は83年桜花賞トライアルです)
80年頃の夏女と言えばラフォンテースでした。
夏といえば関西人の私には小倉のイメージが強いので、小倉で活躍した牝馬を夏女としたいところですが彼女はまさにそれに当てはまった存在でした。
2歳時小倉でレコードでデビューし、次に小倉3歳Sを勝ち、連戦連勝で2歳王者になります。このこと自体が今よりもずっと珍しいことでした。
クラシックシーズンは400キロそこそこの体に疲れが溜まって
振るいませんでしたが、古馬になって夏の小倉で復活して、小倉記念等を勝ち、朝日CCまで、牡馬を一蹴しています。
夏でメンバーが弱かったとはいえ、牡馬に勝ち続けた実力は相当のものがあったと思いますが、それも小倉でのことです。
ただ、その夏の写真がないのが残念。季節的に一番近いのが82年の宝塚記念の写真ですが、これが彼女の最後のレースとなりました。騎手は岩元現調教師です。
(84大阪杯)
たまたま鮮やかな勝利を飾るとそれがその馬の持ち味とされ、それに当てはめようとする傾向はいまでも昔でも、ある程度までしかいけない競馬関係者には特に多い傾向があります。その方が楽ですし、そして人間側の目標が立てやすいので、本当にそれがどうなのかを一度づつ確かめるのは面倒なのでやりもせずに、とにかくそれに汗をかくことで自分の満足度を上げるだけに邁進して、馬がいることを忘れているのでないかと思わせるのです。
(83年京都新聞杯)
80年代の関西の競馬は、かなりレベルが低く、関東の2勝クラスと関西オープンクラスが遜色ないくらいでしたので、強い馬が出てくることもまれで、出てきても各距離別に一頭だけであることが多く、どんな下手な騎乗でも得意な距離では勝ててしまう状況でした。
そうなると、好位置に控えてそこから直線で抜け出す競馬が理想とされているために、どうしてもその形を馬に押しつけてしまい、それが出来ないと馬を平気で悪く言って平然としている傾向が顕著にありました。おまけに徒弟制度の名残があり、有力馬に何でもない騎手が乗れる状況も多かったのでかっこ悪く乗って、馬に文句を言うなんてことも日常茶飯事でした。
(84大阪杯、下の写真で後200なのにまだ引っ張ってるのがわかるでしょう。いまなら少し楽な姿勢で気合いをいれるのに。。)
逃げるなんて一流馬のやることじゃない。逃げるくらいならバランスを崩してでも押さえる方が良いが常道でした。
カツラギエースもこの例に見事に当てはまりました。NHK杯京都新聞杯とダービーと菊花賞の中距離のトライアルを好位から直線抜け出して圧勝し、菊花賞などそれ以上の距離でアッサリ大敗したので中距離の専門とされました。
行きたがる馬でしたが、好位からのレースが脳裏にあり、押さえつけることで脚がたまり最後で爆発できるとし、押さえつけて。
行きたがることは欠点であり直さなければならないとして押さえつけて。
行きたがっていては大舞台で勝負にならないと押さえつけていました。
直線までバランスを壊してロデオ状態になりながらも鞍上が引っ張り続けて直線で抜け出す方法で宝塚記念を始め、関西馬相手に中距離で勝って、秋の天皇賞に向かいます。
トライアルの毎日王冠も勝ちますが、天皇賞では5着。
何でもない馬にも先着され、ファン、マスコミ、そして関東の関係者からの罵声をあびることになります。
関西でなら馬の責任に全てできましたが、それでは転嫁できなくらいの批判をあびて、醒めたくない夢からようやく醒めることになりました。
(84年JC)
押さえつけずのびのび走らせること、騎手も騎乗法を替えることを実行し、2400のJCでは日本馬初の勝利で歴史に名を残し、有馬記念ではルドルフの2着ながら完璧に同世代のミスターシービーに勝って中長距離での世代最高の地位を得たのです。
クラス的に言えば、騎乗法を変えただけで一夜にして1勝クラスの馬がG1を勝った位の差が生まれたのでした。
83年の女王杯は、シャダイソフィアなどの名牝を押しのけて秋の昇り馬のロンググレイスが勝ちました。
父はゲイルーザックでファバージ産駒で、イタリアの名馬です。
テスコボーイの大成功の影響で大人買いで大量に輸入されたプリンスリーギフト系の一頭ですが、父以上に種牡馬成績は振るいませんでした。
彼女が唯一の中央の大レースの勝ち馬となっています。
女王杯を、息の長い末脚で快勝した彼女は、4才になり、今度は田原騎手鞍上で直線ためにためて末脚を爆発させる感じの競馬をして、翌年の秋の天皇賞をミスターシービーの外から追い込んで勝ちかけます。
シービーが仕掛けた後、少し離されてからゴーサインをだされて繰り出した末脚は、まさに背筋が凍る感じの迫力 がありました。
写真は84年大阪杯なのですが、雄大な馬体とファバージ系独特のカッチリとした格好の良い体の線は良質な雰囲気を感じさせて、思わずそちらを向いてしまう雰囲気がありました。
母父はハイペリオン系のテューダーペリオッド、母系は日本の長距離血統で、いま血統表をみても少し血が騒ぎます。
4才時未勝利のまま最優秀古馬牝馬に選ばれているとネットにのっていました。
(80年菊花賞)
ミルリーフ産駒のヤマニンケイを見に行った79年11月の白菊賞のパドックで角張った馬体で格好は悪いが、活気があってなにかを感じさせてくれる馬がいました。ノースガストです。
(79年白菊賞)
未勝利をやっと勝って出てきたところで、エリート相手に勝てるわけがないと思っていたら、内から差しきってしまいました。
続く阪神3才Sを2着してオープン馬になってしまいます。そのあと体制がととのわずダービーにやっと間に合わす感じで10着になりました。
(80年神戸新聞杯)
(3番が一番人気のタカノカチドキ)
北海道で何戦かし、後で名馬になるホウヨウボーイに0.1差で負けたりもして、夏を過ごし、秋の神戸新聞杯では圧倒的な一番人気のタカノカチドキを負かして勝ち、菊花賞の有力馬になりますが、モンテプリンスという不動の本命がおり、優位は絶対であろうと思われ、いわば穴馬的な語られ方しかしませんでした。
(80年菊花賞、9番モンテプリンス、13番タカノカチドキ)
また、菊花賞直前まで勝負服が登録されておらず、常に仮服で出走しており、そんな馬が勝つのかと揶揄されたりもしました。
結果は、なにかおまじないでもしたか、それとも誰かが時間を止めて順位を入れ替えたのかというような感じでモンテプリンスを差しきってしまい勝利します。
現在の京都のスタンドに大改装されて初めての大レースの勝利が彼でした。
鞍上は田島良保です。これ以降、仕事人といわれようになりました。
私は当然唖然としていました。何しろ予感は本物でしたから。。。。。
(81年大阪杯)
ただ、モンテプリンスを負かしたエネルギーは、ノースガストの全てを奪ってしまいました。
この後、翌年春に復帰しますが振わず故障がちで、82年宝塚記念を最後に引退してしまいます。
(82年宝塚記念)
この馬もハイペリオン系です。
(87年宝塚記念 レース写真は残念なことにピンぼけです。。。)
次世代の最強馬であるサクラユタカオーに勝ち、ニッポーテイオーに勝ち、宝塚記念に優勝、ダービーは3着の馬が、なぜ語られないのでしょう。。。
(85年天皇賞秋)
ルドルフ世代でダービーに3着、古馬になって85年暮れの中山開催の第1週で、1600のダービー卿CTで3才のサクラユタカオーに3㎏斤量をやって圧勝し、87年には、4才のニッポーテイオーを宝塚記念で外から差して勝ちました。同じように88年のタマモクロスが宝塚記念でニッポーテイオーに勝ったので彼はそれと同等程度のパフォーマンスを演じたことになり、その能力は相当であったと思います。
(87年宝塚記念)
3才のクラシック路線はルドルフ、ビゼンニシキと同期の関東所属であり、また故障がちで古馬になってからは、1年まともに働けたことがなかったので露出という点では少なかったですが、強い馬でした。
目立たなかった原因の一つは、2年連続三冠馬がでたお陰で比較というより、派手なレースをするシービーの方に人気が集まり、皮肉なことにその頃どん底人気なので、競馬サークル内では、受けが良い方、売れる方の机上の優位論がまかり通ったため、ルドルフを下にしてしまって、それを正論としてしまいました。
そのルドルフに持ったまま負けた馬の評価があるわけもなく、取り上げもされなかったのです。人気が出るわけがありません。産駒も走らなかったですが、種牡馬生活にもこの件は相当応えていたのでないでしょうか。
1頭から2頭走る牝馬がでていれば、どこかにまだ牝馬の方の血統表の中で彼の名前を思い出せたはずですが。
(88年JC)
イギリスで、グランディ、トロイ、シャーガーのダービー馬等ペティンゴ等を介したフェアウェイ系が70年中頃から復権しました。
また、ペティンゴからは、マイルでもG1勝馬が出ていましたので、スピードもあると思われて、にわかにこの系統が輸入され英国リーディングを争っていたピットカーンさえも輸入されました。
スズパレードの父となるソルティンゴは社台に買われて日本にやってきました。
馬場の固いイタリアダービーの勝ち馬でしたがスズパレード以外の産駒はサッパリでした。
ペティンゴ系は輸入はされたものの、英国本格重厚血統は華が咲かずに終わっています。
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